大倉集古館

幻の竪笛オークラウロの演奏を収めたCD第三弾「オークラウロー蘇る幻の笛ーはるかな旅路」発売中

大倉集古館の概要

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オークラウロとは

オークラウロ(Okraulo)はホテルオークラの創業者として知られる男爵・大倉喜七郎(1882~1963)が、自らも吹奏した尺八の音色で西洋音楽を演奏したいという理想を持って、昭和初期に考案・制作した金属製の縦笛です。伝統的な尺八の指孔は5個ですが、オークラウロはフルートのキー装置を取り入れたために、指孔の数はフルートと同じです。尺八としては多孔尺八となります。1930年代半ばから1940年代にかけて、奏者の養成や楽団による定期演奏会などが盛んに行われましたが、戦後の財閥解体により大倉家のバックアップが難しくなると、演奏の機会が激減し、長らく忘れられた幻の楽器となってしまいました。
尺八はご存知の通り、竹で作られているイメージはあっても、歌口とよばれる唇を当てる部分の形状がどのようなものがすぐに思い出すことは難しいかもしれません。オークラウロの頭部管には、尺八の歌口がありますが、全体の印象としてはフルートを縦に吹いているように見えるでしょう。音色もまさに、尺八であり、フルートでもあるというハイブリッドで、オークラウロならではのクリアな音色と、人の息を感じさせる豊かな表現力が大きな魅力となっています。
2011年、大倉集古館では喜七郎の五十回忌を前にオークラウロの再生に向けた活動を開始し、コンサートやCD発売、楽器の再製作などを通じて、その和魂洋才のハイブリットな魅力が、今再び注目を集めています。伝統的な和楽器とは様子が異なりますが、日本人の手によって作られた“和製楽器”です。

大倉喜七郎(オークラウロ)と伊庭孝(ピアノ)1936年 画像 大倉喜七郎(オークラウロ)と
伊庭孝(ピアノ)1936年

オークラウロの歴史

昭和3年に没した父・喜八郎より大倉財閥を受け継いだ喜七郎は、特に日本のホテル業に功績を遺すかたわら、文化活動に熱心に取り組み、とりわけ音楽方面への援助を惜しみませんでした。若い頃の英国・ケンブリッジ大学への留学経験を元に、オーケストラや作曲コンクールの後援など我が国における西洋音楽の普及に貢献する一方で、日本の伝統音楽を深く愛し、昭和初期に新邦楽・大和楽を創設するとともに、新楽器・オークラウロを考案・製作しました。喜七郎は自ら得意としていた尺八の音色を愛し、当時使われていた管の簡素な造りに飽き足らず、西洋音楽の十二音律を正確なクロマチックスケールで演奏できるように、これを改良したいと思い立ちました。
この「大倉式尺八」がオークラウロの名で公表されたのは、初期構想より十数年後の昭和10(1935)年でした。オークラウロの名は大倉の姓と古代ギリシアの竪笛アウロスから、オークラウロ協会の理事長を務めた音楽評論家の伊庭孝により名付けられました。
尺八の指孔を増やし、かつ広げたことにより、フルートに用いられていたベーム式のキー装置が取り入れられるとともに、材質にも竹ではなく銀などの金属が用いられるようになりました。尺八式の歌口のある頭部管以外はフルートとほぼ同じ構造ですが、細部の構造において尺八に近付けるための工夫がなされており、キー装置の形状が縦笛仕様が微調整され、首振りなどの奏法が可能なように背面には指掛具が設置されています。
当初は、英国のフルート・メーカー、ルーダル・カルテ社に、喜七郎自ら当地に赴くなどして製作を依頼し、標準管のソプラノのほか、ピッコロ、ソプラニーノ、アルト、バッソの5種が作られました。翌年には『オークラウロ教則本』も発刊され、銀座・七寶ビル2階にあったオークラウロ協会の事務所に練習生が集められると、喜七郎のほか、古賀一聴、岸星聴、福田真聴(蘭童)、荒木和聴(四代古童)ら若手尺八奏者が中心となって師範を務めました。
時代が太平洋戦争へと歩みを進める中、養成所の開設、計5回を数えた楽団の定期演奏会などの活動が重ねられました。当初は練習会などで主に三曲を演奏していましたが、楽団では次第に西洋クラシック音楽の演奏に傾倒してゆきます。養成所の師範にフルーティストの宮田清蔵が加わり、西洋音楽の演奏という喜七郎の大きな理想に近付いた一方で、フルートと徒らに比較されることで、楽器としてどちら付かずのマイナスイメージが先行する結果を招いたのは皮肉でした。そして敗戦とともに、財閥解体の影響で大倉家による全面的なバックアップが失われると、演奏の機会は急激に失われ、しばらくの間は楽団員であった菊池淡水が民謡の採譜などにオークラウロを用いたりしましたが、次第にその存在は忘れ去られてしまいました。大量生産を目指して国内メーカーで進められていた楽器製作も、性能の向上や生産コストの削減などの問題が途上のまま、頓挫せざるを得ませんでした。
やがて、戦後の我が国の音楽市場を廻る急激な欧米化の波の中、次第に邦楽史の一部でその存在が語り継がれるだけの、まさに幻の楽器となってゆきました。

参考:
•大倉喜七郎「楽器としての尺八改良意見」(大正12年、『三曲』3巻1号)
•近藤滋郎『日本フルート物語』(音楽之友社、2003年)

古賀一聴(S・オークラウロ 右)岸星聴(A・オークラウロ 中央)福田真聴(B・オークラウロ 左)1936年 画像 古賀一聴(S・オークラウロ 右)
岸星聴(A・オークラウロ 中央)
福田真聴(B・オークラウロ 左)
1936年
オークラウロ教則本 1936年 画像 オークラウロ教則本 1936年
ソプラノ・オークラウロ(大倉式尺八)わかまつ製 1935年 画像 ソプラノ・オークラウロ
(大倉式尺八)
わかまつ製 1935年
アルト・オークラウロ RUDALL, CARTE & CO,LTD, LONDON 1940年代 画像 アルト・オークラウロ
RUDALL, CARTE &
CO,LTD, LONDON
1939年頃
バス・オークラウロ RUDALL, CARTE & CO,LTD, LONDON 1940年代 画像 バス・オークラウロ
RUDALL, CARTE &
CO,LTD, LONDON
1939年頃

オークラウロの再生

平成23(2011)年夏、大倉喜七郎の五十回忌を前に、大倉集古館で展覧会「大倉喜七郎と邦楽―“幻の竪笛”オークラウロを中心に―」が開催されました。主な展示の内容は、喜七郎の邦楽方面における業績とオークラウロの歴史に関する楽器や文献資料などで、会期中に3回程行われたオークラウロ・コンサートと併せて、予想を超える多数の来場客がありました。
これを契機に、当館を中心としたオークラウロの再生プロジェクトが始まることになりました。尺八奏者の小湊昭尚がオークラウロを演奏し、翌年初には大倉集古館オリジナルCD《オークラウロOKRAULO》が発売されました。その後、担当学芸員の解説付きのオークラウロ・コンサートは、大倉集古館やホテルオークラでの開催を中心に数十回を数えました。当初は、昭和10(1935)年の「わかまつ」製オリジナル管を演奏に用いていましたが、平成24(2012)年末に泉州尺八工房の歌口デザイン、アキヤマフルートの製作によるオークラウロの試作品が完成しました。これは「わかまつ」製オリジナル管をベースに、歌口の性能を改良し、総銀製で再製作したもので、その後何度かのマイナーチェンジを経て現在に至っています。公益財団法人大倉文化財団では、2013年にオークラウロの商標登録を行って、楽器の再製作にも取り組んでいます。
また、約70年前に作られたルーダル・カルテ社製のアルト管とバス管を修理し、歌口を改良した頭部管を新たに製作しました。松下尚暉と元永拓が演奏をそれぞれ担当し、小湊のソプラノとともにトリオでの活動を開始しました。2015年8月にはセカンドCD《オークラウロ2-Rainbow prism-》をリリースするなど、その活動を着実に広げつつあります。和と洋の境界を自在に行き来するオークラウロの新たな魅力は、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌を始めとする各メディアの注目を集めています。尺八でありながらクリアな音色でクロマチック・スケールに対応でき、かつフルートを縦に吹くような面白さもある。尺八やフルートそのものとは異なるオークラウロならではの音楽―。古典以外にも様々なワールド・ミュージックのジャンルに活動の可能性を広げてゆけるのではないかと考えています。70年前の幻の楽器の再生を超えて、未来に向かうオークラウロの可能性を、皆様とともに育ててゆきたいと願っています。

小湊昭尚(S・オークラウロ 中央)松下尚暉(A・オークラウロ 右)元永拓(B・オークラウロ 左)©須田泰成 画像 小湊昭尚(S・オークラウロ 中央)
松下尚暉(A・オークラウロ 右)
元永拓(B・オークラウロ 左)
©須田泰成
ソプラノ・オークラウロ 2013年製 画像 ソプラノ・オークラウロ
2013年製
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